「衆参ダブル選」

 今年の夏に「衆参同日選挙」が行われるかどうかが、話題になっています(ここ数日で急速に下火になったかもしれませんが)。かつては2つの国政選挙が「同じ日」に行われることを強調してこのように呼ばれてきましたが、いまのメディアでは同じ日に衆院選参院選の「2つの」国政選挙が行われることに重点を置いて「衆参ダブル選」と呼ばれることが多いようです。

 3年前もそうでしたが、参院選のたびに衆参ダブル選の可能性がささやかれます。そして同時に、毎回決まって衆参ダブル選は憲法上問題であるという反対論も提起されます。

 憲法で明確に禁止されているわけではないので、さすがに衆参ダブル選が憲法違反であるという主張は最近では見られなくなりました。そのかわり、一時の民意で衆参の国会議員を選ぶのは望ましくない、参議院の独自性を失わせる、参議院の緊急集会を困難にするなどの理由から、衆参ダブル選は望ましくないという指摘がなされています。

 しかし、本当に衆参ダブル選が国政上望ましくないのであれば、憲法が明文で禁止しているでしょう。仮に憲法の不備で書かれていないというのであれば、憲法改正によって禁止条項の新設を主張するのが本筋です。そうではなく、ダブル選を意図した衆院解散は「禁じ手」あるいは「作法に反する」というのは、何が「禁じ手」であり「作法」であるかについて法的根拠も共通理解もないため議論になり得ないでしょう。「作法」とか「禁じ手」という言葉で憲法を語ろうとする議論には、相当な注意が必要です。

 そもそも衆参ダブル選が国政上望ましくないという理由もよくわかりません。アメリカは2年ごとに必ず上下両院のダブル選が行われていますが、国政上の問題があるとは寡聞にして存じません。さらに4年に1度は大統領選も加わるので、上院選、下院選、大統領選の「トリプル選」です。

 むしろ頻繁に国政選挙が行われる日本の現況からすれば、3年ごとの衆参ダブル選を原則とする運用の方が、少なくとも3年間は国政選挙がない、衆議院議員に一定の任期を確保できるなどのメリットがあると思っていますが、いかがでしょうか。

子の連れ去りとハーグ子奪取条約

  日本でハーグ条約が発効してから、4月1日で5年が経過しました。ここにいうハーグ条約とは「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約」です。日本では一般に(ハーグ)子奪取条約と呼ばれます。

 ハーグ子奪取条約の一番のポイントは、一方の親が(Taking parent: TP)が他方親(Left-Behind parent)の承諾を得ずに、それまで居住していたA国からTPの母国であるB国に子どもを連れ去った時は、B国は子どもを速やかにA国に返還しなければならないことです。それは究極的には子の連れ去りを防止することで、両親と密接な関係を維持する子どもの権利を実現しようとするものであり、同条約は子どもの権利条約の考え方と一致します。

 もちろん国際条約なので、このルールが妥当するにはA国もB国も同条約を締結していることが必要です。日本は同条約が成立してから30年以上経過して、ようやく受け入れるに至りました。

 近年、国際結婚をして外国に居住していた日本人親(主として女性)が、別居や離婚の際に他方親(外国人父)の承諾を得ずに子を連れ去ることが国際的に問題視されています。日本国内では監護権を侵害する不法な子の連れ去りでも違法とされていませんが、国によっては監護権侵害罪として犯罪とされる場合があります。また、国内での子の連れ去りを犯罪としない場合でも、国境を越えた子の連れ去りについては、犯罪とする国々があります。

 最近になってとくに、日本人母による子の連れ去りの問題がヨーロッパやアメリカで認知され始めました。今年3月にフランス国営放送「France 2」の特番において、子を日本に連れ去られたフランス人父たちが、日本に子どもに会いに行くというドキュメンタリーが放映されました。番組名は「日本に拉致された子どもたち」です。

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 フランス人父たちは多くの場合、別居後や離婚後も共同親権や子どもとの頻繁な面会交流権(フランスでは訪問権といいます)が認められているので、日本人母による子の連れ去りは監護権侵害になります。フランスで子の連れ去りは犯罪です。

 彼らは日本の警察でフランスでの調停書又は審判書を示して子に会う権利があると説明するのですが、日本では共同親権や頻繁な面会交流権が認められていないため、警察の反応は極めて冷淡です。むしろ、子に会わせないように父親たちを制止します。

 上記ドキュメンタリーには、悲劇的な場面がありました。

 下の写真は、あるフランス人父が日本人母から受け取ったものです。フランス人父は子どもに会うために日本に来ます。玩具店で日本人の男の子から助言を受けてプレゼントを購入し、子どものもとに向かいます(おそらく母親の実家でしょう)。しかし、父親は玄関前で追い返されて、挙句の果てに警察に連れて行かれます。そして夜になって日本人母から送られてきたのがこの写真です。子どもはカメラに背を背けて、父親から届いたプレゼントを両手で高く掲げています。写真から子どもの顔を見ることはできません。これは何を意味しているのでしょうか。それは父親から預かったプレゼントが子に渡ったことを証明するだけです。おそらく、警察か弁護士のアドバイスで送ったのだと思います。私はこの写真を見たときに、これほど非道なことをする日本人母親がいるのかと思いました。ここまでする必要はあったのでしょうか。映像では、フランス人父は子どもの顔が映っていない写真を見て号泣していました。

 日本はハーグ条約の不履行について、国際的な非難を受けています。フランスの番組のように「拉致国家」といわれないためにも、国はこの問題にもっと真剣に向き合うべきでしょう。

 

丸山穂高議員に対する糾弾決議について

 6月6日、衆議院丸山穂高議員の糾弾決議が全会一致で可決されました。北方領土訪問事業での言動を理由に、同議員には国会議員としての資格はなく、自ら進退について判断せよ、というものです。これは事実上の辞職勧告でしょう。

 注目すべきは、戦争によって北方領土を取り戻すとの発言が「憲法の平和主義に反する発言」として糾弾の理由の一つになっていることです。しかし、いかに政治的に不適切な発言であったとしても、そのことを理由に国会議員の身分が失われることがあってはなりません。その意味で今回の糾弾決議は、1人の国会議員に対する言論弾圧といえると思います。

 かつて貴族院議員であった憲法学者美濃部達吉は、彼の唱えた天皇機関説が国体に背くものとして辞職に追い込まれました。これは今日では弾圧であったと評価されています。丸山議員の場合は学説ではありませんが、彼の政治的発言によって進退の判断を迫られているのですから、まさに言論弾圧です。また、明確な基準もなく、本人の聴取も行われないままの糾弾決議は、手続保障の点からも大いに疑問があります。

 驚くべきなのは、糾弾決議を野党が主導したことです。本来、少数派である野党こそ言論弾圧に警戒しなければならないはずです。それなのに同じ野党議員を糾弾するとは、どういうわけなのでしょう。参院選前の各党の戦略なのかもしれませんが、今後自らの失言が糾弾の対象とされることの危険について少しでも想像できなかったのでしょうか。多数派である自民党は、立憲民主党が提出した辞職勧告決議を回避したことで一定の見識を示しましたが、最終的に糾弾決議案に賛成しました。

 自民党の中でも、小泉進次郎議員は党の意向に反して棄権しています。その理由として「丸山議員の言動はかばえるものではないが、そのことと国会としてどうするかとは別」という旨述べていましたが、正しい認識だと思います。

 メディアも丸山議員の発言内容が不適切であることを当然の前提として、糾弾決議という手段が適切であるかどうか問いませんでした。発言が国益を損ねるあるいは外交問題に発展することを考慮すると当然という意見もありましたが、このような評価を伴うあいまいな理由で国会議員の発言を抑制することがあってはならないでしょう。その他の言動も問題視されていますが、犯罪として立件されているわけでもないため、本人が自らの判断で辞職するのでない限り、国会がそれを強要する理由にはなりません。

 国会議員の発言や行動の評価は、次の選挙で有権者に問われるべきであり、それ以外の方法で議員の身分が奪われることがあってはならないでしょう。国会議員の資格があるかどうかは最終的には有権者が判断するものです。今回の件が悪しき先例とならないことを願うばかりです。

 

裁判官とJustice

 先日、映画「RBG 最強の85才」(http://www.finefilms.co.jp/rbg/)を観てきました。「RBG」とはアメリカ連邦最高裁判事であるルース・ベーダー・ギンズバーグ(Ruth Bader Ginsburg)の頭文字をとったもので、この映画は彼女の評伝です。ご本人も随所で登場します。

 ギンズバーグ判事は1933年生まれの86才で、アメリカ憲政史上2人目の女性連邦最高裁判事です。1993年に任命され在職25年以上になります。アメリカの連邦最高裁判事には任期がなく、自ら辞職しないかぎり終身で在職することが可能です。法律を違憲無効にできる連邦最高裁判事の任期が終身であることに問題がないわけではありませんが(通常は任期制and/or定年制がとられています。)、当のアメリカで問題視する意見は聞かれません。

 ギンズバーグ判事は筋金入りのリベラル派といわれ、弁護士時代から男女平等、女性の権利の確立のためにいわば闘ってきた法律家です。そのような彼女が9人の連邦最高裁判事に任命されていることに、アメリカという国の奥深さを感じます(ただ当時、指名が簡単なものでなかったことは、映画で出てきます。)。

 彼女の功績は、法律論でアメリカ社会を変革させた点でしょう。ロイヤー(法律家)の役割は何か、ロイヤーはどうあるべきかを教えてくれます。彼女のパッションと冷静で緻密な法律論が裁判所を動かし、社会を動かしたのを知り、アメリカとは法の国なのだなと思いました。

 とりわけ印象に残ったのは、合衆国対ヴァージニア州(1996年)判決です。この判決では、ヴァージニア州軍事学校が男性だけに入学資格を認めて女性の入学を認めないのは、合衆国憲法修正14条の平等保護条項に反するとして違憲と判断されました。男女平等を推し進める画期的な判決ですが、当時は相当の反発があったようです。しかしこの判決以後、同校では女性も入学できるようになりました。最高裁の判決が現実を変えたわけです。

 判決から20年後、当時判決をリードしたギンズバーグ自身が同校に招待されます。すでに80歳を超えた彼女ですが、学生や卒業生から熱烈な歓迎を受けていました。こういうシーンは日本ではまず見られないでしょう。

 アメリカの連邦最高裁判事はJusticeと呼ばれます。「ギンズバーグ判事」は「Justice Ruth Bader Ginsburg」です。もちろんJusticeの本来の意味は公正・正義です。アメリカの判事は単なる裁判官(Judge)ではなく、正義(Justice)を実現する人なのだと思い知らされます。

 日本の司法制度、違憲審査制度は戦後、アメリカにならって導入されました。しかし、社会を二分するような重大な問題について、日本の最高裁は判断を示すことに消極的です。これまで法律を憲法違反としたのは、70年を超える最高裁の歴史の中でわずか10件しかありません。アメリカとは異なり、日本では最高裁判事が誰なのかも知られていません。名もない顔もない裁判官こそ、日本で理想とされる裁判官像なのです。

 日本の最高裁判事たちは、本当にJusticeたり得ているのでしょうか。