フランス体罰禁止法

 フランスでは7月2日、両親のしつけの名目での子どもへの体罰を禁止する法律が制定されました。これは、子どもの教育におけるあらゆる形態の体罰を禁止するものです。

 フランスにおいても、親による体罰が問題となっていました。85%の親が体罰の手段に訴えたことがあり、2歳以下の子どもに対しても50%以上の親が引っぱたいたことがあるようです。しかしいまや「体罰が性格を鍛える」という考え方は誤りとされており、体罰禁止は「大人と子どもとの対等」の理念に沿うものだと説明されています。

 制定された体罰禁止法によれば、「親権は、身体的又は精神的な暴力なく行使される」との規定が民法典に置かれます。そしてこの規定の文言は、婚姻届を提出する際に市役所において読み上げられるようです。

 また同法では、フランス政府は9月1日までにフランスにおける体罰の状況や今後とるべき施策についての報告書を国会に提出することになっています。

 もっともこの体罰禁止法に対しては、どこまでが許される「しつけ」であるかが不明確である、子どもの教育の責任は第一義的には親にあり、国家の介入は抑制的であるべきだ、との批判が国会議員から出されています。

 たしかに今回の体罰禁止法は理念を定めただけで、どのような制裁が科されるのかも含めて曖昧なところが残ります。具体的な対策は、フランス政府が9月に提出する報告書を受けてからということなのでしょう。

 日本でも6月の児童福祉法改正で、親がしつけに際して体罰を加えてはならないことが規定され、体罰の範囲についても厚労省が指針を定めるようです。さらに現在では、親の子どもに対する「懲戒権」の見直しにまで議論が進んでおり、こちらもすでに法制審議会に諮問されています。

 もちろん日本にも体罰禁止反対論はありますが、時を同じくして、フランスと日本とで同じ課題についての法律が制定されたことはとても興味深いです。両国の今後の展開にも注目したいと思います。

新幹線での英語アナウンス

 少し前から、新幹線で乗務員による英語のアナウンスを耳にするようになりました。アナウンスといっても、到着時に停車駅名と開くドアの指示だけです。私の記憶では、たしか次のようなアナウンスだったと思います。

 「We are stopping at Nagoya station. The doors on the left side will open.」(まもなく名古屋駅に停車します。左側のドアが開きます。)

 初めはダイヤ改正の端境期のために音声テープでの対応が間に合っていないのかと思っていたのですが、その後も続いているので英語でのアナウンスが正式な対応になっているようです。

 乗務員の方も慣れていないのか、ぎこちない英語で大丈夫なのかと思うときもありますが、収録された音声案内でなく、その電車の乗務員が生の声で情報を伝えることは良いことだと思います。今後、伝える情報が徐々に増えていくのかどうか、注目していきたいです。

 それよりも、新幹線には、旅行者のための荷物置き場を設置するのが急務なのではないかと思います。ここ数年、外国人旅行者がスーツケースなどの大きな荷物をもって新幹線に乗り込む光景をよく見るのですが、新幹線にはそのスーツケースなどを置く専用の場所がありません。多くの人は車両の最後部座席の後ろに置いているのですが、十分なスペースはなく、また出入口付近なので乗降時に混乱していることがあります。

 フランスのTGVでは、各車両に荷物を置くスペースが確保されており、スーツケースを持ち込んでも置き場に困ることはありません。それでも、旅行客が多い時はスペースに収まらず、重ねて置いたりするなどしなければなりません。日本の新幹線でも、旅行者のための荷物置き場を設置するのが良いのではないでしょうか。

 もう一つTGVと違うのは、日本の新幹線にはファミリー向けの座席・スペースがないことです。TGVでは家族連れの旅行者のために、一般席とアクリル板で仕切られたボックス席(4席+4席の合計8席分)が各車両にあります。ここだと子どもが少し騒いでも他の乗客に迷惑をかけることはないため、小さい子をもつ家族にとってはとてもありがたい配慮です。子どもがいると大人の料金が割引になるのもうれしいサービスです。

 また、TGVでは、子どもの座席も無料で確保できました(いまはどうかわかりませんが)。子どもにも座席がないと困るので、これもうれしいサービスです。しかし、日本の新幹線では乗車券をもたない子どもを自由席に座らせることもできないようです。以前、子どもを座らせていたら、車掌がやってきて「子どもは膝に置いてください」と何度もしつこく言われました。混雑もしていないのにです。それ以来、子どものために指定席を予約せざるを得なくなりました。今でもこのような対応がなされているのでしょうか。

 日本の新幹線は「ビジネスパーソンの乗り物」という性格が強く、外国人旅行者や小さい子どもにはフレンドリーではないというのが私の印象です。英語アナウンスにみられるように、今後徐々にでも改善されていくことを願っています。 

親子の引き離しに加担する日本の裁判官

 最近、日本でも離婚後の「共同親権」を導入すべきとの考えが広まってきました。離婚後共同親権とは、夫婦は離婚後も婚姻中と同じく、子どもとの関係では共同親権者であり続けるということです。

 現在の日本の民法では、離婚後は父母の何れかによる単独親権になり、一方親は親権者でなくなります。しかし、夫婦関係と親子関係は別なので、夫婦関係の解消により一方親の親権が強制的に剥奪される合理的な理由はありません。このため、今日多くの国では離婚後も共同親権制が採用されていますが、日本でも近い将来、共同親権への移行は避けられないと思います。

 共同親権が実現していなくても、非親権者(多くの場合は別居親)が子どもと頻繁に接触し、子の成長に関わることができるのであれば、それほど深刻な問題は生じないでしょう。

 しかし、日本の裁判所は非親権者(別居親)と子どもとの面会交流にあまり積極的ではありません。裁判所が考える標準的な面会交流とは、月1回わずか数時間というものです。これでは、親子の実態があるとは到底いえません。共同親権の国では離婚後も父母の養育時間が原則半々とされているのと比べると、裁判所の考えは国際標準から大きくかけ離れています。実際、日本は今年2月、国連子どもの権利条約委員会から、子どもと別居親との頻繁な面会交流を認めよ、という勧告を受けました。

 さらに日本の裁判所は、親子断絶の片棒を担いでいると思われることがあります。最近で驚いたのは、大阪高裁平成29年4月28日決定(判例タイムズ1447号102頁)です。

 この事件は複雑なので、出来事を時系列に示してみます。

 2011年 子ども(9歳)の親権者を母親と定めて協議離婚が成立。同年中に母親は再婚し、子どもは養父と養子縁組をする。

 2012年 実父と子どもとの毎月1回7時間の面会交流を命じる審判が下される。

 2013年 面会交流の頻度を隔月に1回7時間とする決定(「決定1」)。しかし、母親は面会交流を拒否したため、実父が間接強制を申し立てる。面会交流不履行1回につき10万円の支払いを母親に命じる決定が下される。

 2014年 母親が面会交流禁止を申し立てるが却下される。

 2015年 上記抗告審にて、偶数月に1回3時間の面会交流を認める決定に変更される(「決定2」)。

 2016年 母親が面会交流を拒絶したため、実父が間接強制を申し立てる。

 2017年1月 大阪家裁、母親に面会交流不履行1回につき30万円の支払いを命じる。

 2017年4月 大阪高裁、実父の間接強制の申し立てを却下。

 

 この事件で実父は、裁判所による面会交流実施の審判・決定があるにもかかわらず、5年以上にわたって一度も子どもと会うことができませんでした。この間、母親は面会交流禁止の申し立てを行い、また1回10万円の間接強制の費用を支払ってまで面会交流を拒否し続けました。その戦略が奏功して、最後は実父の間接強制の申し立ては却下されました。結局、母親は面会交流を一貫して拒否し続けたことで、満足する解決を得たことになります。

 この事件に接したとき、どうしてこういう結論になったのかと思いました。大阪高裁が実父の間接強制の申立てを却下したのは、子どもが面会交流を拒否している、という理由でしたが、これほどまで争った高葛藤の父母であれば、子どもが同居親である母親の実父に対する強い嫌悪感の影響を受けて成長してきたことは想像に難くないでしょう(「私法判例リマークス58・民法14」)。

 裁判所は当初、面会交流を認める審判・決定を認めているので、父子関係に問題はなかったのだと思います。DVや虐待があったとの事実認定もありません。

 しかし、その後母親の一貫した拒否で1度も面会交流が行われないまま子どもが15歳にまで成長し、裁判所はその時点での子どもの拒絶の意思を尊重すべきとしました。子どもの意思を尊重するのは最高裁の立場に従ったものですが、裁判所による面会交流実施の審判・決定や母親の拒絶などの経緯を不問にして、執行時点での子どもの意思だけを取り出すのは、公正な判断ではないでしょう。結果的に裁判所は、面会交流を拒絶し続けた母親の引き離し戦略に加担してしまいました。

 このような事件の結末は「間接強制の可否」という側面からは仕方がないのかもしれませんが(実際、そのような見解が多いようです)、親子関係という目で見れば別の解決が望まれたのではないかと思います。

 この決定の前審である大阪家裁では、子どもが実父との面会交流を頑なに拒否しているのであれば、条理上当然に、子どもの気持ちをほぐし、実父との面会交流を受け入れるよう同居親は働きかけをする必要があるが、母親はそのような働きかけをしなかったとして、面会交流の不履行について母親への間接強制が認められていました。大阪家裁の判断の方が、常識的で理にかなったものだと思いますが、大阪高裁で覆されてしまいました。

 大阪高裁の決定は確定しているのですが、その後における父子の関係がどうなったのか気になります。イギリスの家族法・家族政策研究者のマリリン・フリーマン氏(ウェストミンスター大学教授)によれば、連れ去りや引き離しは長期にわたって子どもに精神的負担をもたらすようです。親子関係の問題について、裁判所は子の福祉を長期的な視点から捉えることも必要なのではないでしょうか。

 ヨーロッパでは子どもが別居親と交流できるだけでなく、祖父母とも交流できることが人権として確立していることを思うと、日本の法実務の後進性には目を覆うばかりです。日本の裁判所が子の引き離しを人権問題として考える日は、いつ来るのでしょうか。

刑事弁護人

 亀石倫子(新田匡央)『刑事弁護人』(講談社現代新書)が出ました。亀石倫子弁護士は、タトゥー裁判、風営法ダンス規制裁判で無罪判決を導いたことで法曹関係者の間では広く知られています。本書は、亀石弁護士が関わった代表的な事件である「GPS捜査事件」について、事件の受任から最高裁大法廷での判決に至るまでの弁護活動を事実に基づいて描いたノンフィクションです。事件を担当した弁護士自身によるものなので、本人しか知りえない情報が盛り込まれており、この事件を理解するための貴重な記録にもなっています。

 GPS捜査事件とは、捜査機関が令状なくGPSを取り付けたことが違法ではないか、さらにはプライバシー侵害として憲法違反ではないかが争われた刑事事件です。この事件で被告人は犯罪の容疑を認めていたため、争点となったのは、GPS捜査という捜査手法が令状や法律上の根拠なしに認められるのか、違法なGPS捜査で得られた証拠を裁判の証拠として用いることができるか、といった手続上の問題です。

 この事件の被告人は何件もの集団窃盗を行っており、被告人自身もそのことを認めています。でも「けしからん」ことをしたからといって、違法な捜査が認められるわけではありません。とくに、GPS捜査は個人のプライバシーに踏み込むものであるため、憲法基本的人権との関係を調整したうえで、法律で定められる必要があるでしょう。最高裁大法廷は、GPS捜査がプライバシー侵害をもたらすことを認めたうえで、GPS捜査には、憲法刑事訴訟法の諸原則に適合する立法的な措置が必要であると判断しました。

 本書では、最高裁大法廷判決に至るまでの大きな問題に取り組んだ弁護士たちの活動やその中での苦悩が小説風に描かれています。弁護士どうしのやり取りが会話文で示されたりしており、その時々の場面での弁護士たちの気持ちや心の動きがわかるようになっています。

 そのほかに本書でわかったのは、弁護士も「チーム力」が重要なことです。GPS事件の成功も亀石弁護士一人の力だけでなく、司法修習などでともに研鑽を積んだ弁護士たちの協力あってのものだと思いました。多くの人の知恵を借りることで知識の不足や偏りが補われたり、新しい視点がもたらされたりして、それらが弁護の質の向上につながっています。

 考えてみると、最高裁大法廷で判決が下されるまでには、地裁・高裁で多数の裁判官によって検討がなされており、最高裁においても15人の判事だけでなく、調査官と呼ばれるエリート裁判官たちの十分な検討を経ているはずです。事件の相手方の検察も同じです。これに弁護士1人で立ち向かうことはなかなか難しく、刑事弁護にも「チーム力」が求められるのだと思いました。

 本書によると、最高裁での弁論で亀石弁護士たちの弁護団は、マルティン・ニーメラー牧師の詩を読み上げたようです。これは、ナチスの諸々の弾圧に対しても「自分には関係ない」として人々が抗議の声をあげなかったことで、最後には抗議の声をあげる者は遂にいなくなったというものです。GPS捜査事件に直面した亀石弁護士たちの「見て見ぬふりをしない」心意気に、弁護士としての使命感を見ました。

立憲主義という企て

 井上達夫立憲主義という企て』(東京大学出版会)が公刊されました。本書の約3分の1を占める憲法9条論はこれまでの憲法学に対する根源的な批判であり、今後憲法学はこれに応答することが求められるでしょう。

 井上先生の批判は、立憲主義を理解しようとしない政権与党にも向けられますが、それ以上に、自らの政治的選好を実現するために立憲主義を蹂躙する野党や護憲派に対して向けられています。

 井上先生はかなり以前から「9条削除論」を唱えていました。戦力不保持を憲法で定めている国などないので、普通に考えるとそうなるのですが、リベラルで、天皇制廃止論者である井上先生がまさか戦後憲法アイデンティティである9条の削除を提唱するとは当時思ってもいませんでした。

 「9条削除論」の主張は極めてシンプルで、戦力の保持を正面から認めた上で憲法的統制下に置く、というものです。現在は、憲法9条によって憲法上は戦力は存在しない建前になっているので、それに憲法的統制を及ぼすことはできません。こうした問題意識から、9条削除論は、単に憲法9条を削除するだけでなく、同時に国会承認手続、最高指揮官条項、軍事裁判機関などの戦力統制規範を憲法に整備せよという主張も含んでいます。

 これまで憲法学は9条削除論を完全に無視してきました。それは憲法学者の多くが、9条は「非武装」を求めているので自衛隊憲法9条に違反する、という考え方に立っていたからです。自衛隊憲法9条違反というのなら、その即時解体まで主張するのが一貫した立場なのですが、今日の自衛隊違憲論は自衛隊違憲の烙印を押し続けることによって、その正統化や肥大化を阻止するという戦略に転換しています。しかしこれは政治運動論であり、憲法論としての資格をもちません。こうした議論でもいまだ「憲法論」としてまかり通ってしまうところに、日本憲法学の未熟さがあるでしょう。

 井上先生にとって、憲法学が理論も理屈もない自らの政治的選好をむき出しにしたご都合主義に見えるのは仕方ないと思います。本書では有名な憲法学者が次々に俎上に乗せられ、彼らの欺瞞が容赦なく暴かれています。とくに東大の同僚や元同僚であった憲法学者に対しても温情なく批判の矢を向けていることは誠実な態度だと思いました。井上先生に批判された者たちは、学問的にきちんと反論しないかぎり、自説の非を認めたことになると思います。

 とくに井上先生が問題視しているのが憲法学者の知的誠実性です。2015年の安保法制論議の時、それまで自衛隊違憲論を唱えていた論者たちが、集団的自衛権で団結するために自衛隊合憲論に転じたことを厳しく批判しています。政府や内閣法制局の解釈変更を批判しておきながら、自らはこっそり学説変更を行うのは無節操としかいいようがありません。それが学問的吟味の上でなされたのならともかく、自らの政治的選好を実現するためなので、本来許されるものではないでしょう。そういう憲法学者の行動が憲法学に対する信用を落とすだけでなく、ひいては憲法論や立憲主義論への信頼を貶めているとすれば、本当に罪深いと思います。

 

 

 

 

 

「国際的な子の連れ去り」講演会

 先日、大阪弁護士会館での講演会「国際的な子の連れ去り:連れ去り・再統合が子に与える影響、及びハーグ条約手続における子供に関する研究」(外務省・大阪弁護士会共催)に行ってきました。講師は、家族法政策実務国際センター共同代表および英国ウェストミンスター大学教授のマリリン・フリーマン(Marilyn Freeman)氏です。講演会には、弁護士だけでなく、国際私法や子の連れ去り問題を専門とする著名な研究者も来られていました。

 フリーマン氏は、家族法・家族政策を専門とする法律家(弁護士)ですが、連れ去りがもたらす子どもに対する影響についての研究も発表されています。講演では、連れ去り経験のある子どもの10年~30年後における面接により、幼少期に片親に連れ去られた当事者の声を多数紹介されていました。

 フリーマン氏らの調査結果によると、約74%の面接者が連れ去りによって「極めて重要な影響があった」とされ、アイデンティティの危機、安心感・自尊心の喪失、心を開けない、人格破壊などの精神衛生上の問題が見られるとのことでした。そして、子どもへの影響はすぐに表れるのではなく、大人になって気づくことが多いことから、長期に及ぶということです。

 さらにフリーマン氏によると、連れ去り(abduction)は子どもに悪影響を及ぼすが、同時にその後の再統合(reunification)においても子どもに影響を与えるそうです。というのも「連れ去られた子どもと子を連れ去られた親は、離れていた期間にお互いのいない生活をやり過ごせたことを双方とも認識しており、お互いを必要とする確信を失っているため」です。これはなかなか鋭い洞察ですが、悲しい事実だと思いました。このような確信の喪失は、引き離し期間が長いほど妥当するでしょう。ハーグ条約が6週間以内という早期の連れ戻しを原則としているのは、連れ去り後の現状の固定化を回避して、できるだけ早く元の状態(原状)に戻すのが良いという考えがあるからなのでしょうか。

 フリーマン氏は最後に、連れ去りの体験は「連れ去られた子ども、その両親や家族の人生を必然的に変えてしまう、おそらく一生涯にわたって」と締めくくっています。そのためには、防ぎ得る連れ去りは防ぐべきこと、ハーグ条約手続では子の意思をきちんとくみ取ること、連れ去り後の子どもに対するサポートが必要なことなどの提言をされました。

 実は、フリーマン氏の調査対象となっていたのは、国際的な子の連れ去りの事例ではなく、イギリス国内での連れ去り事案です。しかし、子どもの視点に立ってみれば、連れ去りが国内に留まるか、国境を越えるかはそれほど重要な問題ではないでしょう。彼女が国内事案と国際事案とを区別しなかったのも、子どもの視点に立っているからだと思います。

 ハーグ条約実施の責任機関である外務省は子の連れ去り問題に徐々にですが取り組みつつあるようですが、一方で、国内での子の連れ去り被害について法務省や裁判所はどのような対応をとるのでしょうか。連れ去りは良くないこと、子どもに影響を及ぼすということは、いまや国際的にも自明のことだと思いますが(もちろんやむを得ない場合もあるでしょうが)、日本の裁判実務では離婚後単独親権制度の影響もあり、いまだ「先に連れ去った者勝ち」という実務が横行しているようです。「子の連れ去り」という大人のゲームに翻弄されるのは常に子どもである、ということを、そろそろ真剣に考える時期に来ていると思います。

 

 

日本に「立憲主義」は根づいたのか

 憲法の最もポピュラーな体系書である芦部信喜憲法』(岩波書店)が、今年2月に改訂されました。補訂者である高橋和之先生(東大名誉教授)による「第7版はしがき」には、かなり踏み込んだ記述があり驚きました。

 第1は、最晩年の芦部が、憲法9条解釈として「政治的マニフェスト」説への変更を考えていたかもしれない(『芦部信喜先生記念講演録と日本国憲法信山社、2017年)、という指摘です。政治的マニフェスト説とは、高柳賢三(東大名誉教授)が提唱したもので、憲法9条は法的拘束力のある規範ではなく、平和への意志を対外的に表したものとする学説です。この学説は、自衛隊違憲論が主流である憲法学界では一貫して退けられてきました。

 しかし、憲法学界のメインストリームであった芦部が政治的マニフェスト説への転向を検討していたとなると一大事です。もっとも、その後の芦部が論稿として公表していないことや体系書の記述を変更していないことから、結局、政治的マニフェスト説を支持するまでの得心には至らなかったのではないか、というのが高橋先生の見立てです。

 第2は、憲法9条問題が日本における立憲主義の最大の「アキレス腱」であった、という指摘です。憲法9条の平和主義は日本国憲法アイデンティティを成すと目される規定なので、それが立憲主義の「アキレス腱」であったというのは、これもまた大きな問題提起です。

 この問題提起の背後には、憲法9条憲法と現実との乖離をもたらしており、これにより「政治が憲法に従って行われる」という立憲主義が蝕まれてきた、という認識があります。ここには、憲法学界が理想を高調することには熱心な反面、現実を説明できる理論の構築を怠ってきたことへの非難と自戒の意味が込められているのでしょう。もし芦部が憲法9条自衛隊の矛盾の解決に悩んで末に政治的マニフェスト説を再検討していたのだとすれば、それは芦部の学問的な誠実さを表すエピソードとして、たいへん興味深いと思います。

 それにしても、日本国憲法の一丁目一番地とされてきた憲法9条立憲主義の定着を妨げてきたというのは、何とも皮肉なことです。「立憲主義を護れ」という呼びかけが「虚ろにしか響かない」のだとすれば、それには理由があったのです。